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粉々に壊れたココロを拾い集める女たちの本音blog
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柚葉&焔
性別:
女性
職業:
社会人で女
趣味:
妄想
自己紹介:
濃い人生だねと言われること多し。実は、平凡・平和をこよなく愛する、怯えた子どもであることに気付き、血を吐きながら生きるふたり。
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空中に飛んで、ふっと何の痕跡も残さず消えることができたらいいなぁ

と思っている。
無駄にでかい肉体、役に立たない腐った脳みそ。
こんなもの、なんの意味があるんだろう?

自虐的になりそうでちょっと怖いわもう困っちゃう~!

フラフラ、ヨタヨタしてる。
流されてばかりいる。

常にそうだ。
足場がないんだよな、生きていくための足場。
表現力が貧困なのでうまくいえないんだけど・・・

自分がない、と言うと抽象的すぎるかもしれない・・。


自我をもっと出してもいいんじゃないの?
泣いたり喚いたり、痛いときは痛いって叫んでもいいと思うよ?
簡単なことでしょ?



周囲の人間は、親切で言ってくれているのだと思う。



いつも何度も考えてみるのだけど、自分の足に包丁が刺さって出血したとしても、
「包丁が刺さって血が出ている」
という事実は認識できても、包丁が刺さった自分の足が「痛い」んだと認識するのが難しいのだ。

「ありえない。怪我すりゃ痛いの当然でしょう?
 痛いっていうことがわからないなんて、おかしいよ」

う~~~ん・・・・ちいさい脳みそをひねって考えてみる。

例えば、私の場合、

1)包丁が刺さって血が出た
       ↓
2)床が汚れるから拭かなきゃと思う
       ↓
3)おっと、その前に止血したほうがいいかな


という順序で考える。
悲鳴を上げるとかはまずない。

自分の意志なんて持ったことない。
自分の身体は自分だけのものだということが、今は頭ではなんとなくわかってきているけれど、痛みを感じた身体をどうすればいいのか、ということがまだわかっていない。文章おかしいな・・・

今日食べるもののこと、今夜の身の安全さえも確保できるかどうかわかんないのに、自分の意志がどうとかって考えられるほど図太くもない。もともとひとつのことしか考えられないアホだから。


以前、焔も記事にしていたと思うけれど、
たぶん、決して痛みを感じていないわけじゃないと思うんだ。

だけど、その感じた痛みを表現する術を知らないだけじゃないかと。
まさにその通りだと思った。

最近再び乖離状態になることが増えているので、気をつけようという戒めのため、と
記憶をいつなくすかわからないので、ここを読み返せば
「あぁ、こんなこと考えてたのか」
とわかるようにしておこうという意味をこめて今日は日記風に書いてみた。


薬が効かなくなるってのもつらいな。。。
夏ばてのせいもあると思うが。
なんてか弱いわたし(笑)

柚葉
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いとしい人に、

『幸せになりたいなんて、望んでも良いのかな?』

そうと問われる切なさを、あなたは想像できるだろうか?

私たちは生きたいかなんて考えない。
生きていても良いかなんて、問わない。
そんなことは誰に問うまでもなく、自分で決めてきた。
泥水を飲んででも、汚物にまみれても、
あたしたちは生きたかったし、生きることしか考えなかった。


生きることだけしか見えなかったし、私たちにとっては、それ以上のことを考える余裕はなかった。

しかし、いま、私たちはそれ以上のことを要求する。

私たちは、幸せになろうとしながら、生きていく。

自分の心の声を聞き、
自分の体の声を聞く。

ずっと無視してきた自分を、
自分から迎えに行って、この手で抱きしめる。

柚。
あたしはあんたと生きていきたいよ。

一歩一歩、明るいほうへ、温かいほうへ。

あんたはゴミなんかじゃない。そう扱われてきただけ。ゴミ野郎たちにね。
自分の価値は、自分で決めよう。
あたしにとってあんたは、溝の中で見つけた宝物だ。
あたしの評価だけじゃ不満かい?

体中が常に痛くて仕様がないよね?あたしも同じだ。
具合の良いときなんかないだろう?あたしも同じ。
疲れやすくて困るよね。
生きていること自体が、呼吸するだけのことが、
あたしたちにはもう、
満身創痍での、痛みの表現なんだ。

バラバラだったあたしたちの感覚を、記憶を、無理してつなごうとしなくたって良いんだよ。

大丈夫になったら、そのときがきたら、
必要なものは自然にあたしらに戻ってくるんだ。

どんなに痛くても、引きちぎられそうでも、
戻ってきた感覚がもたらす痛みは、あたしたちを殺しはしない。

新しく生きるための痛みなんだ。
その痛みは、
あたしたちを殺すためのものではなく、生かすためのものなんだよ。

怖くて、不安で、
痛くて仕方がないけれど、
あたしたちは、生きよう。
生きていることを罪悪に感じながら、日々を送る。

それが私の普通の状態だった。
そのことをきちんと自覚していたわけではない。
自覚して、脳みそで自分の存在を罪悪に感じている、私はなんて命根性が意地汚い人間なのだろう・・・と言語化できたのは、きっと20代に入ってからだったと記憶している。

記憶のある限りでいう子どもの頃、

「どうして私は生きていてはいけない人間なのに生きているのか?」

と、ただ不思議に思っていた。もちろんそう思わざるをえない状況下で成長期を過ごしたから、だと今は解る。いや、洗脳されてたんだろうね。
自分の意志を持つことを許されず育った人間は、「心のありかた」さえも自由にできないし、知らないから、それを疑問に思うことさえしない。


私はまだおむつもとれないような幼い頃から、変質的な性癖を持った複数の男たちに弄ばれ、放置されるという行為を繰り返し受けていた。そういう変態男たちのエジキになっているということにさえ長く気付かずにいたのだから。

10代半ば、義務教育を終えた私は、朝の7時から夜中の3時まで毎日働いた。
16歳のときにはすでに月収は50万を超えた。


男に飼われなくても生きていけるやん!

と確信を持った。


どんなに酷使しても壊れない肉体と、何をされても感じない凍りついた心臓、考えることを完全に放棄してしまった脳みそ、この三点セットが私の最大の武器だった。何も考えたことも、恐れたことも、迷ったこともなかった。

だけど、働けなくなる(仕事を失う)=明日のエサを調達できない、なので、それだけは恐怖だった。
このあたりから、生きることに対する執着心は凄いものがあったんだろうなぁ。

仕事はいくらでもあったし、仕事は裏切らない。そんな時代だった。
なりふりかまわず働けば、その分金銭という目に見える見返りを手に入れることができた。それは私にとって、初めて自分の意志で手に入れることのできたものだったから、何があっても働くことをやめたくなかったし、金を稼げない人間になるなどということが、絶対に許せなかったのだった。

成人してすぐ、初めての妊娠を経験し、自分の稼ぎがない状態に置かれた私は、精神状態があきらかにおかしくなった。当時の配偶者は、安月給の普通のサラリーマン。贅沢しなければ充分暮らしていけるだけの収入があって、別に無理して私は働かなくてもよかった。

だけど、自分自身が今は金も稼げない人間なのだということを認めるのが、恐ろしくて恐ろしくて、わけのわからないことを口走ったりして配偶者を困惑させた。
夜は自分の体の中に宿った子どもを殺す夢を数え切れないくらいみては怯え、昼間は自殺する妄想を暴走させて、臨月を迎えた。

仕事をしていればその職場ではとりあえず「自分はまだ生きていてもいいんだ。金を稼ぐという生産性のあることをしているのだから」と、必死に我が身に言い聞かせることができる。が、金を稼げない自分の存在を、許すなどという高度なことは、全くできなかった。


子どもが生まれ、私は完全に狂った。
記憶がない。ただ、生きて産まれたものを生かしておく、その執念だけで数年を過ごした。
我が子に笑いかけることもしなければ、食べ物を味わうこともしなかった。


狂った笑いを子守唄に、栄養失調で母乳が出なくなった乳房をおもちゃがわりに握り締めながら、私の子どもは目を見張るような力で生き延びた。


「廃人でも何でもいい。何もしなくていいから、ただ生きていて」


そう声をかけてくれた人間がいた。

狂っていることに気付くこともできず、認めることもできず、
真っ黒な、ヘドロのぬかるみが底に溜まったブラックホールにズッポリはまって、自力で抜け出すこともできなくなったとき、私の体と脳みそは一度完全にぶっ壊れた。ぶっ壊れたらもう、狂っている自分を認めざるをえない。狂った私の手を、だまって握り続けてくれた人間がいた。私は、その手を、振りほどこうとしたこともあるし、見えないふりをしたこともある。

だけど、その手は、何年経ってもずっと私の手を握り続けていた。
その手は、熱かったり、冷たかったりしたけれど、変わらずそばにあった。

私は男とも女とも、誰とでも寝る女だが、その人だけはセックスの対象としてみれなかった。


血まみれの、傷だらけの、ヘドロまみれの、私の手を、焔は離さなかった。



今も私の体には、無数の傷跡がある。
その傷跡は、かさぶたがはっているものもあるが、まだ時々自分の手で剥がしたために、血膿が滲む傷もあるし、新しくできた傷もある。肉をえぐりとり、骨までもが剥き出しになったような傷を、にやにやと眺めるのが日課だった私が、今、自分の体の傷を、消毒している。

この行為は、

「自分がこの世に存在することを許した行為」

なのだと最近は思っている。
血を流さずには生きられない、生きることは終わることのない戦い、でも、私は生きることを選んだ。


投稿者:柚葉






男の喜ぶ顔を見るのが好きだった。

妙な満足感を得られた。

私は、セックスという手段でしか男を喜ばすことができないので、そのテクニックを磨くため、色んな男と関係を持ち、試行錯誤してきた。

人間の性感帯はそれぞれ違う。
言葉で喜ぶ男も多い。
男の脳みその中にも、女の部分があって、その女の部分も可愛がることができる男はセクシーな男が多いなぁ・・・と思った。

素直に感じること
感じたことを素直に表現すること

無防備な状態に私はセックスアピールを感じる。

私を無防備な状態に置くことができる男はいなかった。
無防備な状態でいて、いつ殺されるかわからないからだ。
そういう状況でのセックスしか知らない、情けない女だった。

どこをどうすれば相手が喜び、
耳元でなんと囁けば男が感じるのか、
それを常に考えていなくてはならないと思っていたから。



私は今、私自身が気持ちいいと感じることを探っている。

仕事が終わった後、キンキンに冷えたビールを飲み干す瞬間。
太陽に晒されたフカフカの布団に倒れこみ、子供たちを両脇に抱えて眠る夜。
弱っているとき、おんなともだちに深夜までグチをこぼす。

行動のひとつひとつ、心の持ち方さえも自由にならなかった支配されきった生活の中では決して得られなかったものを、私は今、自分の手にしている。

その喜びに打ち震えているのだ。

足元がグラグラしていて、常に足元を確認しながらしか歩けない。
そんな日常でも、今生きていることを罪悪に感じなくても良い、という幸せがある。

気付かないうちに色んなものを手に入れていることを知った。

泣き喚き暴れてどうしようもない小さな私も、一緒にいる。
ずっといる、いっしょに・・・



幸せに慣れていないため、知恵熱を出している日曜日の呟き(笑)

投稿者:柚葉

今日は自分の立ち位置を確認するために文章を書いておくことにする。
面倒なことだが、これを定期的にしないと混乱が広がりいろいろと不都合が出る。内部に毒が流れている人間は、こうして現状把握をせずに毒を外部に漏らさずにいることができない。←愚痴

 

「飢え」という単語は、私という人間を表現するキーワードの一つだ。
ひりひりした乾き、焦り。怒涛のように押し寄せる衝動。自分の思い通りにいかないことへの怒りと暴力性。
行き場を持たない黒い気持ちが、この「飢え」によってもたらされる。

私と、私の友人知人たちが持つ最大の「飢え」は、「原初の愛」だった。
産まれおち、当然のように抱きあげられ、親という人たちに継続していつくしまれる。それがなかった。捨てられたり、放られたり、虐待された。とにかく人間として迎えられなかった。

「飢え」というのは、生命の危機である。生命を維持することは、生き物の本能だ。つまり「飢え」という状況は、トラウマになりえる。
住むところがない、食べるものがない、衛生状態が悪い。
そして状況を許しているその根幹に、周囲がこちらに無関心であることがある。救いがない。

「飢え」を抱えたままだと、視野が狭くなり判断を誤る。
そんな自分の経験を踏まえて、子どもたちに安心で安全な養育環境を与えたいと願ってきた。そういう活動をしたいと思った。しかし、途中で気づく。

社会が、私たちの基本的な生活を保障することを放棄しはじめている、と。

私がこの職場にとどまっていることの意味、成人女性に寄り添うグループを立ち上げた意味はそこにある。「飢え」は、今格段に広く蔓延している。大人、が動かないと、現状を変えられないからだ。

安心して、安全に暮らしていくことは、当然の権利だ。
それは、赤ん坊が空腹を満たして眠りに落ちる安心感を想起させる。「満ちている」ということは、心に平安を生じさせる。そしてゆっくりと正確な判断を下すことができる。

日々の生活に怯え、先の見えない不安定さの中で暮らすことは、心と体を蝕む。
それしか考えられなくなるから、思考力も奪う。空腹や、明日もわからぬ生活は、ぶつける先を吟味できない激しく性急な怒りとなる。周りのより影響を受けやすいもの、弱い立場の者が、もろにかぶりやすくなる。

私たちのいる社会は、安心ができるものではない。
私たちは、遺棄されている。一部の人を除いて、遺棄されている。
個別の幸せを考えたとき、いつもぶつかる壁があるのは、そのためだ。

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