03 | 2024/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
世界は汚いものだけで作られているわけじゃない。
でも、きれいなだけでもない。
人間もそうだ。
どんなに素敵な人の内面にも、
どんなに素晴らしいことをしている人の内面にも、
どす黒いものはある。
そういうものなんだ。
私は溝に生まれた。
溝の水を飲み、溝の中を住み家として生きた。
そこから見える景色は、悲しいくらいに、汚いものだった。
きれいなものを見たくて、
私は自分の目を潰すことにした。
ヘドロがまといつく感覚は、とても気持ち悪かった。
だから私は自分の皮膚を焼いてしまった。
こうやって、私は世界を自分から積極的にあきらめていった。
どんどん私は孤独になっていった。自分で自分の存在を見失うほど、私は何ものからも切り離され、ついには自分からも切り捨てられた。
溝に生まれ、そこから動けなかった私は、溝から見える景色と溝に住む生き物しか知らなかった。そこが私の世界のすべてだった。
4年半前はじめて溝から出た私は、世界はきれいで汚いのだと知った。二つの面を、内包しているのだと、知った。
そして、人も、その小さな宇宙の中に、二つの面を隠しているのだと知った。
溝の生き物は、そのことに衝撃を受けた。知っていたものは、世界の一部でしかなかった。
きれいごとばかりを言う人が嫌いだった。
でも、そのきれいな言葉にどうしようもなく引き寄せられて酔っぱらってしまうことも確かだった。
溝の中で、どれだけ美しいものに飢えていたのかを思い知って、心がぎゅうっと締め付けられた。
人生に対する能天気な甘さに反吐がでた。
でも、人生の僥倖を信じられるその心の素直さにめまいを起こすほどあこがれた。
溝の中で、どれだけ心を荒ませて、疑うことばかりを覚えただろう。
信念より、助けたい他人より、自分の命の方が大切だと言い切る人を憎んだ。
でも、自分の命が大事だといえるその正直さや無防備さを、歯がみするほど羨んだ。
守りたかった自分の心さえ、守れなかった。そんな生を生きるしかなかった生き物が、ここにいるのに。
汚してしまいたいと、
世界を黒く塗りつぶしたいと、
願わなかったわけがない。
私は、溝にいる間、人間になることを許されなかったのだ。
やさしい言葉は、
温かい励ましは、
友人という言葉は、
暖かい陽の光のような友愛は、
私を焼き切るレーザー光線くらい、激しく熱く鋭かった。
ぬくまるどころか、蒸発してしまう。
私は、そういった世界も、感情も、関係性も、知らずにいたのだから。溝の生き物だったのだから。
当事者の背中を必死に押す支援者がいる。
社会に、世界に、自分の言葉を吐きだせ、表現しろと。
社会を変えたいなら、表現をしっかりしないと始まらないのはわかる。
でも、その前に、『ただ、生きる』それだけに命も心も精いっぱい使い尽くしている生き物もいると知ってもらえたら。
社会への怒りは、まだわからないの。
自分の命が大事だと、まだ知らないの。
繭の中でまださなぎのように、自分を眠らせている。
でも、中では化学変化が起こっているの。
信じて。
待って。
溝の中の生き物だった、私からのお願いだ。
homura
先週だったかな?もそういった番組やってましたね。
嫌な感じを受けたのは、東海地方のお寺の住職のおっさんが、ネグレクト等の虐待を受けた子どもたちを預かっているというもので、このおっさんの対処の仕方に、激しい嫌悪感を持った。
家から逃げてきた子どもに、虐待親に合わせるセッティングをする・・・
これは人としてどうなの?サポートでもなんでもないじゃん?と思ったのは私だけだろうか?
また、この住職のおっさんは、
「どんな親でも、子どものことは心配してるんだ」
というような意味のことを言っていたけど、あほじゃないかと思う。
だって今も昔も、子どもを愛せない親も、愛そうとすらしない親も、数え切れないくらいいるじゃない?
子殺しだって昔から普通にあるし、平気で子どもを捨て切ってしまう親だって現実には吐いて捨てるほどいるじゃない?
愛したくても愛せなくて苦しんでいる親もいるかもしれないが、自己愛と支配欲に取り付かれて愛そうという努力すらしない親とは雲泥の差があるだろうし。
虐待され続けた子どもは、自分が生きていることにさえ罪悪感を抱きながら生きなくちゃいけない。
そんな血を流しながらリアルを生きている子どもに、虐待した親に会わせるなんて、このおっさんはいったいどういう神経しているんだろう・・・???
子どものころ、私は家から逃れたくて、逃れるためには、非行に走るしかないと判断した。
そして、虞犯少年として、児童養護施設に入所したが、親の意向ということで、数ヶ月で戻されてしまった。
その後、数年間非行を繰り返したが、鑑別所どまりで少年院までは行けなかった。
なんだかあほらしくなって、私は非行少女を必死に演じるのをやめた。
施設の職員も、鑑別所の教官も、私を保護した警察官も、皆口を揃えていった。
「お前はあんな立派な親御さんがいるのだから、帰る家があることに感謝しなくてはな」
どこがどういうふうに私の親が立派なのかさっぱり今でも解らないが、私は幼いながらも「全てをあきらめる」以外生きる手段はないんだ、ととことん感じた。
上記のようなおっさんのところに預けられた子どもたちは、また深い絶望の淵に追い込まれてしまうような気がした。これは、大人と言う立場を利用した、自己満足のはけ口でしかないと思う。
傷を負った子どもは、何も信じられなくて、大人を試すための行為を繰り返す。
それが非行であったり、甘えであったりさまざまだろうが、子どもと向き合う覚悟があるのなら、試されてナンボでしょ。中途半端な自己満足のためにしか子どもに向き合ってないなぁ、というのが見え見えなところに違和感を持ったのだ。
まさか、この番組を見て、感動して泣いたりするような人・・いないよね??
いないと思いたい・・。
投稿者:柚葉
周囲の大人は、みんな腐ったゾンビに見えた。
だから、一人で生き抜かないといけないと思った。
信じられるのは、自分ひとり。
でも、自分の心だって、いつ狂うかわからない。
だから私は誓った。
決して狂わない、と。狂うくらいなら、自分を殺すと。
狂わずに大人になって、孤独に闘い続ける子どもの私を救い出すと。
そして大人になって気づいた。
大人になったからといって、力がつくわけではないのだと。
私一人の力では、大人になって尚、無力だった。
誰かの援助が必要だった。
人は、一人では生きられない。
どんなに傷がうずいても、忘れていた傷を広げられようとも、
誰かに援助を求めねば、無い能力をつけてもらうよう乞わなければ、
力はつかない、子どもの私を助けにいける大人になれない。
傷ついてきたものは、傷つくことを余計に恐れる。
それは当然。
でも、傷つけられて生きてきたものこそ、さらにいっそう傷つく場面に飛び込まねばならないときがある。
巻き込まれるのではなく、自ら選んで、覚悟して飛び込む必要があるときがある。
一人では生きられない。
逃げ続けることはできない。
でも、生きているのだ。それならば生き続けて欲しい。
自分の心から、逃げないで。自分を信じられるように、自分を裏切らないで欲しい。
私はきっと、どんなに傷ついても、同じセリフを馬鹿の一つ覚えのように、叫ぶだろう。
執筆者:-homura-
「あなたは、それでも殺されなかっただけましでしょ」
と、ことあるごとに言われた。今も言われる事がある。
戸籍上の親がいて、きょうだいもいて、ひとりぼっちになんてなったことないじゃない?
確かに、そうかもしれない。
実際に殺されそうになったりしたことはあっても死なないしぶとさが私にはあったし、直接手を下すほどのバカ親でもなかったと思う。
それでも、私には、誰もおらず、常に独りだった。
平成になってからの世の中は、子どもを虐待する大人の事件がやっと日の目を見るようになってきて、私たちのような子どもは、減ってきているかのような錯覚を世間に感じさせる。
「社会=大人が見ないようにしてきたこと」が、多少なりとも表面化してきただけであって、決して陰惨な児童虐待や、性犯罪が急激に増えたわけではない、ということに気付いてくれる大人が少しでもいることを祈る。
地獄を生き抜いてきたかつての子どもが、今の社会を『ただ生き延びる』それだけのことが、どれほどまでに難しい事なのか、を、解ろうとする人間がいるだろうか?と私は問うてみたい。
虐待を、無くすために大人ができることは、同情でもなんでもなく、
『事実から目を背けず、被害に遭った人間の心に、寄り添う努力をすること』
これに尽きる。
物心つく前から、自分の命の存在を罪悪に感じながら、汚物、廃棄物以下の扱いしかされず、死ぬ事も許されなかった、そんな人生しか選択肢がなかった人間は、人間として生きる術を持たないまま大人になる。
この、『人間として生きる術を持たないまま、外見上だけ大人になる』ことの危うさを、今一度考えてみて欲しいと大人になった今、私は思う。
生物学上の親、戸籍上の親が、保護すべき義務のある子どもを、心身ともに命に関るほどの危険に晒すことが少なからずともあるという事実から、目を背けないで欲しい。血縁者は、保護者に適している者であるはず、という思い込み=思い違いを、まずなくしてほしい。
そして、間違いを認識したときは、迷わず声を上げる、などの行動に移して欲しい。
声を上げる、というだけの行為が、いかに難しく、勇気のいることなのかは、かつて声を上げることさえなかった、諦めて、絶望の淵を這いずり回ることしかできなかった私たちが、一番よく知っている。だが、声を上げる大人がひとりでもいる、ということを、子どもに伝える事ができれば、今の悲惨な状況にとどまっている必要などどこにもないのだ、という気付きのきっかけになる。
『あんたが、今生きていられるのも、親がいたからでしょ?』
この台詞を吐く前に、どうして実親からの児童虐待がこんなにも多いのか?を考えて欲しい。
投稿者:柚葉